ラストシーンを考察
取っ組み合いになった未麻とルミだったが、割れたガラス窓がルミの腹部に刺さり、発狂した彼女は道路へ飛び出してしまう。
そしてトラックに轢かれそうになった瞬間、未麻が咄嗟に駆け寄って救い、2人は病院へ運ばれることになる。
この場面で印象的なのが、ルミが前方から迫るトラックのライトを、まるでステージのスポットライトのように捉えていた描写だ。
観客の喝采を浴びるように笑顔で腕を広げている姿は、ルミがアイドルという存在に誰よりも理想と執着を抱き続けていたことが伝わってくる。
物語はその後、未麻がルミの入院する病院を訪ねるシーンへと移る。
看護師たちが未麻について噂をしていることからも分かるように、彼女は女優として大きな成功を収めているようだ。おそらく、事件からある程度の年月が経過しているのだろう。
一方のルミは、少しずつ自我を取り戻しつつも、いまだ精神的な病を抱えたままで、自分をアイドル・霧越未麻だと思い込んでいる様子。
つまりルミが一連の事件を引き起こしたのは、自身が理想とするアイドルの未麻と、現実の未麻との乖離に耐え切れなかったからだ。その矛盾は、彼女の精神を破綻させるほど大きなものだったのである。
しかし未麻は、病室の窓越しにルミを見つめながら、静かにこう語る。
「もう会えないことは分かってるんです。でもあの人のおかげで今の私があるんですから」
そこには、自分を殺しかけた相手への恐怖や憎しみだけではなく、アイドル時代から駆け出しの女優時代まで、自分を支え続けてくれたマネージャーへの感謝が滲んでいる。
それは同時に、未麻なりの静かな別れでもあった。
さらにこのシーンでは、ルミが向き合うガラス窓に“アイドル時代の未麻”の姿が映り込んでいる。
その演出からは、未麻自身が過去の自分とも決別しようとしているようにも感じられる。そして、本作最大の考察ポイントとして語られ続けているラストカットへと繋がっていく。
車へ乗り込んだ未麻は、バックミラー越しに微笑みながら、こう呟く。
「私は本物だよ」
本作全体が、現実と虚構を揺さぶる構造になっている以上、この台詞によってさらに混乱した観客も少なくないだろう。「今いる未麻は本物なのか?」と疑わざるを得ない。
しかし、物語全体の積み重ねを踏まえると、この言葉は他者の理想像に振り回される未麻ではなく、自分自身を確立した未麻の到達点を示す台詞だと考えられる。
アイドルと女優という2つの像の間で揺らぎ続けていた彼女は、ようやく「私は私」と胸を張れる場所へ辿り着いたのである。
では、なぜ今敏は、未麻本人を真正面から映さず、バックミラー越しの姿で物語を締めくくったのだろうか。今敏は、Blu-ray特典の解説の中で、観客を混乱させる意図ではなく、あくまで個人的な解釈として次のように語っている。
人間というのは一度成長したらそれで終わりではない。
過去の自分の価値観を壊し、混沌の時期を乗り越えてまたひとつ大人になる。
その繰り返しが続いていくから、鏡の中の描写にした。パーフェクトブルー [Blu-ray]付属 パーフェクトブルー講座より
つまり、霧越未麻という人間は、これからも変化し続けていく存在なのだ。だからこそ今敏は、彼女を完成された存在として真正面から映すのではなく、鏡越しの未麻で物語を締めくくったのだろう。
現実と虚構が交錯する鮮烈な演出が注目されがちな本作だが、その根幹にあるのは「ひとりの人間が、自分自身の在り方を見つけていく物語」だと、このラストシーンで明確になる。
パーフェクトブルーの総評
「本物」「リアル」とは何なのか。
そんな普遍的でありながら曖昧な問いに対して、『パーフェクトブルー』はひとつの答えを提示していたように思う。
ルミやミーマニアにとっては、アイドルとしてステージに立つ未麻こそが「リアル」な存在であり、未麻自身にとっては、アイドルと女優という2つのイメージで揺らぎながら模索する自分こそが「本物」だ。
つまり「本物」や「リアル」は、それぞれの立場によって全く異なる捉え方ができ、絶対的な答えは存在しない。
しかし、答えはないと分かっていても、他人から見た自分のイメージはどうしても気になってしまうものだ。
友人、クラスメイト、職場の同僚、誰の前でも自分が少しずつ違って見えることはありえるだろうし、未麻のように他者の視線や期待が重圧となることもある。そんなふうにアイデンティティが揺らいだ時こそ、この作品を観たくなる。
『パーフェクトブルー』はサイコサスペンスであり、グロ描写や性的な表現も多いが、同時に“綺麗事では語れない自分らしさの探し方”を示してくれる作品でもある。
鬼才・今敏の初監督作にして、彼が生涯貫いた「現実と虚構」というテーマが強烈な形で表現された傑作映画。解釈が分かれる点も、本作の魅力をより深めている。
気になった方は、ぜひ今一度この作品を観返してみてほしい。